第27回 無題

以前読んだ本に次のようなことが書かれていた。

曰く「嘘のコツとは、真実をベースに誇張を薄く足していくことだ。ストーリーを細部まで念入りに積み上げ、あらゆる角度からの質問を想定し対策する。そして何よりそのフィクションを自分自身に暗示し、自らも欺き通せ。さすれば嘘は誠と成らん」

 

嘘が誠になるということはどういうことだろうか。記憶や意識が改変されたということを意味しうるのだろうか。勿論人間の記憶というものはそう簡単に書き換えできるものではない。事故や病気でもないのにある日突然違う人に生まれ変わるということは、荒唐無稽のようにも思われる。

しかし、自分に嘘の記憶を植え付け続けるうちに、それが本当なのではないかと錯覚することは必ずしも否定できないだろう。元来、人間の記憶というものは不確かなものである。交通事故の映像を被験者に見せた後に車の速度を訪ねる実験においては、質問文に含まれる衝突時の音によって、回答が大きく左右されるのは有名である。そして時とともに錯覚だという意識が徐々に薄らいでいき、潜在意識下に沈みこんでいく。この時記憶が改変したといえるだろう。

そして、潜在的な思考は行動に顕現する。無意識の行動が習慣化し、また他人の認識に影響を与え、ついには環境を動かしうるならば、嘘が自らに適合する形で現実の改変をもたらしたことになりうるのではないか。このとき嘘は誠になるのである。

 

人生においては、自分のありのままの姿を見せることを避けなければならないライフイベントが少なからず存在する。自己と否応なしに向き合う中で、自らのパーソナリティへ逃避・諦観・妥協・改善・改変など様々な対応をとることになる。

都合の良い記憶を作成する中で、自己は改変されていく。社会から与えられる常識や規範という型に曖昧で漠然とした何かを流し込み、社会人が生成されていく。そうやって社会に合わせて変化していくような感覚に、どこか安心感を覚えつつも、寂しさと得も言われぬ恐怖を覚えるのである。

 

なんだこれ?