第35回 萱草を焼いて

高校同期たちと酒を飲み交わしていると、図らずも中学高校当時に言い及ぶ事が少なくない。自分が全く知らなかった出来事や、関与していた行事の裏話などに耳を傾けるのは非常に面白く、また感慨深い気持ちに包まれる。

だがふと、自分が経験したはずの出来事、さらに言えば自分が当事者の一人であるはずの出来事について話題が移った際に複雑な心持になることがある。概要は思い出せるのだが、詳細な記憶が飛んでいるのである。何を思って如何に行動したのかが思い出せない。またそれが思い出せても、他人とどのように交流したか、その内容が欠落していることがままあるのである。

様々な経験をしてもそれを糧にできていないのではないかという不安と、自分の人生が消えていくような名状し難い恐怖に襲われるのだ。特に安定や一貫性を大切にしている(少なくともそうしようと意識している)自分にとって、これは中々辛いものである。

人間の記憶というものは極めて不安定で、主義主張が変わるだけでも以前の思考や記憶が失われると聞く。それならば日記をつけて人生の移ろいを記録し、忘却に抵抗してやろうか。受け入れない過去に向き合い折り合いをつけるのは苦しいが、前進するために必要な過程なのかもしれない。あるいは忘却しやすいこの体質は僥倖なのだろうか。

結論は後の自分に任せて、今はただ只管に卒論の進捗を生むのみである。