第4回 雑感:アニメなどの感想会について

皆さんこんばんは。

 

今日は朝から書類とにらめっこしていました。

迫りくる試験、就職をはじめとして、いずれ向き合わなければならない人生の重要局面に差し掛かっています。

小学生の私はそれはそれは立派なライフステージ案を書きました。

今はとりあえず生存しているのでそれだけは昔の自分に誇りたいと思います。

 

そんなわけで、とりあえず今日のタスクはひと段落したので(正確には不完全ですが)駄文を書き綴りたくなりました。普段以上に支離滅裂になっているかもしれませんが悪しからず。

 

タイトルに戻りまして、皆さんアニメは鑑賞しますか?漫画でもいいです。演劇などでもいいですし、芸術活動の外に出ても構いません。

何かを鑑賞した後に多くの人が何かしらの感想を抱くと思います。

そしてそれをほかの人と話し合う。いわゆる感想会ですね。ないなら今造語したことにします。

 

私はこの感想会というものに苦手意識を抱いています。

おそらくこれには大きく2つの理由があって(と自分では考えています)、

一つ目は自分の言語使用能力やボキャブラリーが極めて限定されているために自分の中の感情・情動を十分に言語に落とし込めないから。

二つ目は言語化することで自分の中の情動や感想が制約されるように感じるから。

だと思っています。

 

一つ目はわかりやすいですね。ボキャ貧のために十分な言語化ができない。そのためありきたりな感想しか言えず、あるポイントがどのように良いのか細部まで上手く言語化することができない。

これには創作や芸術への教養も絡んでくるのですが、要はどう好ましいのかを私はうまく説明るのが苦手なのです。

右脳はイメージ、左脳は言語などとは言われますが、どうもアニメなどの創作鑑賞時には右脳が優位になっているのかもしれない。よくわからないけども。

 

二つ目は一つ目とも関連してきますが、鑑賞後の自分の感想(言語化前だから感慨のほうが適切か?)を言語に移し替えると、どうも零れ落ちてしまう部分があるような気がする。そしてその零れ落ちてしまった部分を言語で再び拾うのは難しいのではないか、とも思っています。

他人との感想会では、なるほど自分になかった視点を言語で手に入れることができる。しかし、そのプロセスにおいては言語という水平における「自分」が揺らぐように感じるのです。

また、言語化された感想は未言語の感慨よりも持続的です。このため、長期的には言語化された感想による、感慨の上書きが起こるようにも感じるのです。

 

これは自分が自己の同一性を重視する人間だからかもしれません。ニュースやアニメなどの作品への感想が、どこからが自分のもので、どこからが他人の言葉なのか、わからなくなったことはありませんか?

突き詰めると「自己とは?」という深遠な問題になってひじょ~にめんどくさいのでやめましょう。哲学苦手だし。

 

以上、感想会についての雑感でした。

皆さんはこんなめんどいことは考えずに、酒でも飲んで寝ましょう。

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SaKe